誤解のすゝめ

誤解」というものについて、ちょっとだけ考えてみた。

意味はこんな感じらしい。

《名・ス他》

意味をとりちがえること。まちがった解し方をすること。

なるほど。

漢字を2つに分けたらわかりやすい。

誤(った)



なるほど。

なるほど。

で、僕は気づいた。

発信した方の人間にしか「誤解」という概念がない

という事に。

これ、けっこう自分的には コペルニクス的転回 なぐらいの発見なんですが。

「誤解」の反対は何になるんでしょうか?と思って調べてみた。

誤ったの反対だから、正しいで「正解」かな?思ったんですが、

ただしい対義語は「理解」でした。

誤解 ⇔ 理解

なるほど。



そもそも逆の言い方をすると

話を受け取るほうの人間には、誤解という概念はない

わけです。

だって、発言した人の話を聞いて、自分の頭で考えて判断して「理解」したんだから。

発信した方が「誤解」だと思ってるだけで、受け手の感覚としては別に「誤解」はしていない。

ただ言ってることを「理解」しただけ。



そう考えると、発信者以外の人間が「誤解」という言葉を使う時のケースは限られていて

“ああ、あの話は「誤解」だったんだ”

みたいに、受け手が使うときは必ず過去形として


または俯瞰で見てる第三者が、話の受け手に対して

“それはきっと「誤解」だよ”と、うながす時

ぐらいでしょうか。



どっちにしろ、

話の受け手は、さらさら「誤解」したとは、「理解」した時点で思っているはずはない。

どうやら、誤解と理解は同時にできないらしい。

だから

受け手に対して、必死にその誤解を解こうとするのは、いつだって発信した人間

になる。

ちょっと考えたら、これ普通のことだけど。

こんな風に考えたことがなかったので、一人で「なるほど」と、夜の難波を歩きながら思ってました。



なんか色々と腑に落ちた。

そもそも、伝えたい事が

口から出て言葉になったり

それが文字になったり

歌になったり

何かの形になった時点で、

発信者の意図が100%、相手に伝わることは、まずありえない。

とんでもなく悲しい事実だけど。



受け取った人が、それを その人なりに解釈して「理解」するだけ。

それを「誤解」とするのは、発信した人間のみ。

コミニケーションに関わった人間の数だけ「理解」という名前の解釈が生まれるので、

そこにあるほとんどは たくさんの「理解」。

「誤解」は、発信した人間のひとつだけ。

「誤解」さん、ひとりぼっち。

圧倒的に不利やん。



だから「誤解」を必死で解こうとする行為は、不利な状況のなかでの「負けが確定してる試合」みたいになっちゃうわけですね。

で、わかってもらえなかった…とか、そんなつもりじゃなかったのに…と、発信者が落ち込む。と。

しかたない。

完全に分かり合えたり、

100%理解しあうことはできない

ので、真実は人の数だけ出来ちゃうし。

「言った、言わない」とか、

「やった、やってない」

っていう事実関係って、受け手からすると最終的に実はどうでもいいし。



などと、考えると自分は

「好きな人達に誤解されないように」とか

「好きな人達にされてしまった誤解を、なんとかして解こう」とか

そんなことに、いままでたくさんの時間を割きすぎてたんじゃないかな?

という気がしてきた。



誤解される時はされる!しかたない!

って割り切る強さってのは、きっと必要。



あと相手を「好きな人達」って思ってるなら、もっと信用しないと。

けっきょく、その人達のことを 全然 信用していない。

「今は誤解してるけど、あとで絶対にわかってくれるはず」って。

本当に信用してたら、そう思えるはずだし。



なるほどなー。

でも、そんなにいきなり強くもなれないし、生き方は変えられないけどね。

ちょっとした気づきでした。



必要なのはいつだって「嫌われる勇気」ってやつですかね。

あれはアドラー心理学の話の本ですが。



と、昨日の朝方にツイッターで某氏と、何気にしたリプのやりとりの後

こんなことを考えたりしてましたとさ。

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