タイムマシンみたいな夜のレポート

異論のある方も多いとは思うが、「タイムマシン」は実在する。

あの未来や過去に自由に行ったりできる・・・という空想科学的な乗り物の事である。

いきなりの急展開な話で、ここを読んでくれている方には申し訳なく思う。

しかし、たしかに実在するのだ。

とある「タイムマシン」に関する簡単な研究レポートをこの場を借りて発表させてもらおう。

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考察

「タイムマシン」と言われ、どんなものを想像するだろうか?

手塚治虫の漫画に出てくるような、近未来的な乗り物を想像する人もいるかもしれない。

もしかしたら、ドラえもんタイプの学習机から乗り込む「あの」タイプを思い浮かべる人も多いかもしれない。

その研究成果によると、本来の「タイムマシン」とは、そんなSF物語にでてくような形状とは似ても似つかないものである。

しかも、残念な事に「過去」にしか行く事ができない。

それも、例えば「去年の11月12日に行く」・・・といった細かい時間指定は、どうやらできないらしい。

これは最近わかったことなのだが「タイムマシン」に乗り込む際には、年齢制限もあるらしいのだ。

子供は乗れないらしい。

それは、例えば「18歳から乗り込みOK」といった単純なものではなく、「子供は乗れない」という曖昧な規定のようである。

だから、「なんなくタイムマシンに乗り込める高校生」もいれば、「20代なのにタイムマシンにはいまだ乗れずという成人」も存在するという。

年齢制限をクリアした「乗り込み資格あり」のあなたのために、すこしだけ「タイムトリップ」・・・つまり時間旅行をする上での心得を書いておこう。

心得

旅立ちの日には「天候」が重要だ。

それが例え「日帰り」の旅だとしても、お天気は断然、気にしたほうが良い。

ただこれも曖昧で、人によって好条件が異なってくる。

単純に「快晴=旅立ちに好都合」と一概に言い切れないところが厄介なところでもある。

ある人には、「晴れわたった蒸し暑い夏の朝」が最高の「タイムトリップ日和」かもしれない。

またある人には、「秋の優しい風が吹くお昼時」が最高の「タイムトリップ日和」かもしれない。

ちなみに私の場合は、どうやら「蒸し暑い今みたいな季節の夜」などが、絶好の「タイムトリップ日和」のようだ。

「タイムマシン」への乗船前、適度のアルコールの摂取もいいかもしれない。

「タイムマシン」への乗船、運転行為は、日本の道路交通法の関与しない領域なので、いわゆる「飲酒運転」でもまったく問題ない。

ただ、これは私見ではあるがアルコールの摂取に関しては適量が望ましい。何事もほどほどが一番だ。

「音楽」も良い。

なるべくなら、思い入れの深い曲を道連れに旅に出たい。

洋邦、新旧、ジャンルは別に問わない。

素敵な音楽を連れて出る旅は、いつだって素晴らしい旅だ。

名曲をテープにふきこんで、あの向こうのもっと向こうへ♪と気分は「イジュー★ライダー」である。

素敵なあなただけのBGMをじっくり選んでもらいたい。

乗船

あとはひたすら「待つ」。

何を?

もちろん、「タイムマシン」が来るのを、である。

イメージとしては、映画「となりのトトロ」でふいに猫バスが主人公の少女たちを迎えにくる・・・あのイメージに近いもしれない。

「人間は忘れていく生き物である」と、よく言われる。

どんなに覚えていたい事でも、どんなに大切なことでも、忘れていく。

記憶の容量がパンクしないように、「都合よく忘れていく」という事は、生きていくためには仕方のない事かもしれない。

「忘れるからこそ、物事と向き合える」・・・というと、都合よく解釈しすぎかもしれないが、それも一つの真理かもしれない。

しかし、「忘れる」とは言ってもそれは表面的な事で、記憶じたいが消えて無くなってしまうわけではない。

私たちは「その忘れるべき記憶」を、例えば「胸の奥にある箱のような物」にしまいこんで、「鍵」をかけてしまう。

感情の記憶自体は蓄積されていくのだが、「奥底の鍵つきの箱」に入れられてしまった「それ」は、その後、二度と外にでる事はない。

触れないが、そこにずっとある。

それがつまりは「忘れる」という事のメカニズムである。

ごくマレに、その開かないはずの箱が開くことがある。

届かないはずの奥底に、「いつかの音」が響き渡り、

見つかるはずのない箱に「いつかの匂い」が染み付いて、

目に映った景色と、肌で感じる風が、温度が、湿度が、すべてが混ざり合って、少しだけ口の中が乾いてしまった瞬間。

五感で感じる「いつかと同じ世界」が「鍵」となり、箱が不意に開いてしまう。

その「鍵」こそが「タイムマシン」の正体だ。

五感のすべてが、いつかの風景を感じて、頭ではなく、体が一瞬、思い出すのだ。
その瞬間を意識して捕まえる・・・それが「過去に行く」という行為なのだ。

ここまでを読んで、「いや、それはただ昔を思い出しているだけでは?」と思われた方もいるかもしれない。

似てはいるが、根本的にそれとはまったくの別物である。

鍵が開く瞬間は、ほんの1秒かもしれないし、もっと長い時間、あるいは短い時間かもしれない。

ただそれは、何に例えようもないくらいに強烈な体験である。

はじめて経験した人は、たぶん戸惑ってしまうだろう。

意味もないのに、白昼、不意に「切ない気分」になった・・・なんて経験のある人はいないだろうか?

理由もないのに「嬉しい気分」で目覚めた朝、なぜだろう?と考えてみたら、原因は昨日見た夢だった・・・なんて事はないだろうか?

体の記憶、無意識の記憶という点では、この感覚は近いかもしれない。

とにかく、色々な条件が奇跡的に一致した瞬間に、何の予告もなく「タイムマシン」は私達を迎えに来る。

注意しなければいけないのは、いわゆる「バッドトリップ」というヤツである。

とんでもなく「辛い記憶」というヤツにとらわれて、不意に迎えに来た「タイムマシン」に乗ってしまった場合、「現在」に帰ってこれなくなる場合がある。

楽しかっただけの「過去」にすがりついてしまうと、「現在」が馬鹿らしく思え、これまた「現在」に帰って来れなくなるケースも報告されている。

「現在」という地に足をつけて生活できていない人間は「過去」に行く権利すらないのだ。

だから、子供が安易に「過去」に行くというのは、お勧めできない。

今と向き合っている「人間」、成人しているとかそんな判断基準ではなく、本当の意味での「大人」にしか乗船権がないというのは、こういう理由からだ。

(単純に子供は経験の蓄積が少ないため、「タイムマシン」が動かないのも理由のひとつだが。「タイムマシン」の燃料は「経験と感情の記憶」である。)

ただ、向かい合っても向かい合いきれない「過去」だってある。

そんな場合は「タイムマシン」が迎えにきても、私は乗船をお勧めしない。

バッドトリップ(最悪な旅)など、御免こうむるべきだ。

旅というのは、いつだって楽しくなければならない。

「乗る」「乗らない」という選択は、いつだってあなたの自由意思に委ねられている。

そんな例外を除き、「タイムマシン」で過去に行くという行為は素晴らしい。

離れ離れになってしまった恋人とだって会える。

もう会えなくなってしまった友達とだって会える。

いつかの夜のあの空気を、また肌で感じることができるのだ。

その過去に行くという「一瞬」は、大げさな話かもしれないが「永遠」になる。

「過去」に行くとは、すなわち「ケジメをつける」という行為にも似ているかもしれない。

すべてを「過去」だと受け入れる。

そうする事により「過去」と「現在」の立ち位置が明確になる。

だから、ただ昔を思い出して「過去にすがりつく」という行為とは、根本的に異なるのだ。

いつだって地軸は「現在」にあるのだから、「強さ」も持って何だって乗り越えなければならない。

乗り越えた人間にだけ与えられる「ご褒美」のようなもの。

それが「タイムマシン」に乗るための「乗船チケット」なのかもしれない。

「過去」を受け入れて、「現在」を見据えると、その先に進むべき「未来」が見えてくる。

このレポートの冒頭で「タイムマシンは過去にしか行けない」と書いたが、誤りだったようだ。

どうやら、僕らのタイムマシンは未来にだって行けるみたいだ。

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